尾崎豊と同世代の一ファンから見た彼の歌と生きざまについて書きます。
私の15歳の夜の替歌 カラオケ動画。
彼と同時代を生きていた一人の男の意見に過ぎないことは予め断っておきます。
尾崎豊誕生
1983年12月1日、アルバム『十七歳の地図』、シングル「15の夜」でプロデビューしました。
このアルバムを2016年現在聴きなおすと、彼のその後の打ち上げ花火のような爆発的快進撃と、不可避な悲劇が、この時点で内包されていることがわかります。
収録曲をみるだけでも想像が付きます。代表曲5曲が収録されてます。I LOVE YOU, 15の夜, 十七歳の地図, OH MY LITTLE GIRL, 僕が僕であるために
こんな名曲たちを、17歳の少年が、デビューアルバムに入れてきたのです。彼はその後これを超えるアルバムを作れなかったことに、苦しみ続けたと想像されます。
10代でリリースした3枚のアルバムは全て素晴らしかったですが、それでも、1stアルバムが一番だったと私には感じられています。17歳のデビューでピークだったのです。天才の悲劇の極限です。
以下、尾崎豊が10代で出した3枚のアルバムでの代表曲が減少していく様子を具体的に説明します。
ファーストアルバム 十七歳の地図
A面
全作詞・作曲: 尾崎豊。 |
# |
タイトル |
編曲 |
時間 |
1. |
「街の風景」(SCENES OF TOWN) |
西本明 |
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2. |
「はじまりさえ歌えない」(CAN’T SING EVEN THE BEGINNING) |
西本明 |
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3. |
「I LOVE YOU」 |
西本明 |
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4. |
「ハイスクールRock’n’Roll」(HIGH SCHOOL ROCK’N’ROLL) |
西本明 |
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5. |
「15の夜」(THE NIGHT) |
町支寛二 |
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合計時間:
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B面
# |
タイトル |
編曲 |
時間 |
6. |
「十七歳の地図」(SEVENTEEN’S MAP) |
西本明 |
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7. |
「愛の消えた街」(LOVELESS TOWN) |
町支寛二 |
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8. |
「OH MY LITTLE GIRL」 |
西本明 |
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9. |
「傷つけた人々へ」(TO ALL THAT I HURT) |
西本明 |
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10. |
「僕が僕であるために」(MY SONG) |
町支寛二 |
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合計時間:
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セカンドアルバム 回帰線
これも素晴らしいアルバムですが、代表曲と言えるのは「卒業」「シェリー」の2曲でしょう。個人的に「ダンスホール」は寂れた味があって好きなのですが。
A面
全作詞・作曲: 尾崎豊。 |
# |
タイトル |
編曲 |
時間 |
1. |
「Scrambling Rock’n’Roll」 |
西本明 |
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2. |
「Bow!」 |
西本明 |
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3. |
「Scrap Alley」 |
町支寛二 |
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4. |
「ダンスホール」(Dance Hall) |
西本明 |
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5. |
「卒業」(Graduation) |
西本明 |
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合計時間:
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B面
# |
タイトル |
編曲 |
時間 |
6. |
「存在」(Existence) |
町支寛二 |
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7. |
「坂の下に見えたあの街に」(Downslope) |
町支寛二 |
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8. |
「群衆の中の猫」(Cat In The Crowd) |
町支寛二 |
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9. |
「Teenage Blue」 |
西本明 |
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10. |
「シェリー」(Shelly) |
西本明 |
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合計時間:
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サードアルバム 壊れた扉から
これも素晴らしいアルバムですが、代表曲と明確に言えるのは「Forget-me-not」だけです。
この曲は大きな意味を持ちますが、それは曲ごとの解説に書きます。
個人的にはドーナツショップ、失くした1/2とても好きですが。
A面
全作詞・作曲: 尾崎豊。 |
# |
タイトル |
編曲 |
時間 |
1. |
「路上のルール」(RULES ON THE STREET) |
西本明 |
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2. |
「失くした1/2」(ALTERNATIVE) |
西本明 |
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3. |
「Forget-me-not」 |
西本明 |
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4. |
「彼」(GRIEF) |
Yutaka Ozaki & Heart Of Klaxon |
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5. |
「米軍キャンプ」(BASE CAMP) |
西本明 |
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B面
# |
タイトル |
編曲 |
時間 |
6. |
「Freeze Moon」 |
Yutaka Ozaki & Heart Of Klaxon |
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7. |
「Driving All Night」 |
Yutaka Ozaki & Heart Of Klaxon |
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8. |
「ドーナツ・ショップ」(DONUTS SHOP) |
Yutaka Ozaki & Heart Of Klaxon |
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9. |
「誰かのクラクション」(SOMEBODY BEEPS A KLAXON) |
西本明 |
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合計時間:
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この時点で、既に尾崎豊は非常に苦悩していたことが想像できます。1stアルバムを超えるアルバムを10代にして2回挑戦して作れなかったのですから。
サードアルバム 壊れた扉からをリリースしてから、彼は20歳にして突然、活動休止宣言をして、アメリカに行きます。
そのとき、週刊プレイボーイでは、『本当に上手い奴で、自分がカリスマになったら飽きられる前に、休んで外国行って、さらにカリスマ性を高めることを狙っているんだろう』というような記事がでたので、そうなんだろうかとぼんやり思った記憶があります。この時点で既に彼は、マスコミから、とんでもない誤解をされていと思われます。本当に曲が作れなくて、苦しんで、外国に行ったと考える方が自然に思えます。
尾崎豊は、アメリカに行ってから、作曲のヒントは得られないまま、そのストレスから、危ない方向への入口をこの時点でもったように見えます。
尾崎豊の歌の魅力
尾崎豊の歌の最大の魅力は彼の声です。優しいだけではとても説明できない魅力を備えた声です。彼の歌を聴くと理由は説明できませんが、この人は確実に、
自分より遥かに苦しい状態からそれでも一生懸命歌ってくれている。
と感じられるのです。 それが、悩んだり苦しんだりしている多くの人の心に直接響いてきます。それは他の歌手ではない、ユニークで強い魅力です。
まるで、救われる、助かるという感覚で、しかもダイレクトに心に内側から伝わってきます。彼と同世代の中には私もそうですが、尾崎豊を好きだとは、当時恥ずかしくて、公言しにくいようにも感じていました。
おそらく、彼自身は、作曲には、多少苦手意識もあったかもしれません。作詞は、彼でないとできない、ダイレクトに心に迫ってくる、人が感じても言葉にできない思いや、心を揺さぶる言葉を作り出してきてます。
尾崎豊の息子の尾崎裕哉
と比較すると、尾崎豊の魅力を別の意味で理解できるような気がします。尾崎裕哉さんは、遺伝というのものは凄いものだと思わされるほど、父親の尾崎豊とそっくりの声質、歌い方をします。
ある意味では生き写しのようです。とても上手に、尾崎豊の歌を唄える。そっくりに歌える。 でも根本的には違うと、私には感じられます。
それは、例えれば、尾崎豊は砂漠をさまよって、水がないと死にそうなほど、渇ききった状態で、水について歌っている、必死さがあるのに、息子の尾崎裕哉くんにはそれがない。私にはそう感じられるのです。
勝手な意見であることは承知ですが、感じたままを正直に書かせてもらってます。いくつかネット上にある尾崎裕哉さんのインタビューもみましたが、尾崎豊ほど、危ないものを抱えてない感じで、むしろ親からすればそのほうが安心でしょうが、芸術家としては、危うい状態から何が何でも芸術を作らなければいけないような、尾崎豊とは違った、でも声はそっくりで動作もにているというように感じられました。
尾崎豊は恋愛をどう捉えていたか?
尾崎豊の主な楽曲をラブソングとそれ以外で曲数を比べると、ラブソング5曲 非ラブソング34曲でした。 ラブソングは割合としては多くないのですが、ラブソング5曲はどれも名曲です。比重としはラブソングがかなり重い印象です。5曲とも、とても切ない思いが伝わってきます。それは、その恋愛が続かない不安があるから、ずっと一緒にいようと何回も語りかけたり、忘れないでいてくれと訴えかけたり、自分が大変なとき、君だけが支えてくれたという内容が多いです。
ここで、普通の男が勘違いして、同じことすると、失敗すると思うのです。これは尾崎豊のような特殊に、特別に、天才的に、魅力的な男だからできたことで、最初から相手に思いっきり負担かかりそうだ口説き方して喜んでくれる女性は、よほど男に魅力がない限り、残念ながら、あまりいない奇特なタイプと思われます。でも、そのうったえかける、切なさ、美しさは、本当は正直に表明できるようになりたいところでもあります。
尾崎豊は、女性に救いを求めるような恋愛をしていたのではないかと、歌からは想像できます。それと、女性ばかりか、彼の親友だった
も、尾崎豊は、透明なとてつもなく美しい瞳をしていた。とんでもない魅力的な男だったと言っています。すごく優しかったということを言ってますね。他人の心がわかるような優しさがあったと。会った人しかわからない超魅力をもっていたことは歌からも想像できます。
吉川晃司
も尾崎豊の親友だったそうですが、一度、吉川が元プロボクサーを怪我させて障害事件となったことあります。
吉川はなかなか理由を言いませんでしたが、尾崎豊のギターをその元ボクサーが踏んだのに腹をたてて、「ワン ツー」てパンチ出しただけ。で骨折という、事件でした。
斉藤由貴
親密な関係にあることを週刊誌に取り上げられたことがありました。斉藤由貴は「彼とは恋人というより同士」 という発言もしています。ちなみに斉藤由貴も『卒業』といういう自分の歌を歌っています。尾崎は離婚して彼女と結婚したというゴシップもありましたが、彼の恋愛観はそこからはわかりません。
尾崎繁美
奥さんだったこの方が一番苦労したのではないでしょうか。実際、暴走するファンから身の危険を感じて、ずっと日本を離れることになってます。尾崎豊に「あなたに ここまで付き合えるのは私しかいない。」と発言していたと雑誌に書いてあったことがありました。妙にリアリティー高かったので覚えてます。尾崎豊の10代の歌が反抗や被害者意識的なものが既にあった上で、その後の薬や、人間関係からして、身内は相当大変だったとしてもおかしくないからです。
尾崎豊の死因
26歳での不幸な急死でした。 22歳で既に覚せい剤の使用で逮捕されていますから、それから4年健康状態も良くなかったことも推測できます。
一番驚くのは、警察も、事件性なし、前後関係から見ても、事件性はほぼないことが容易に推察される彼の死亡事故で、死因が不審だと暴走するファンが多数出てきていることです。
彼の死を受け入れられなかったということもあるのでしょうが、ネット上にある情報を丁寧にみるだけでも、これは事件性は極めて少ないらしいと判断できると私は思っています。
尾崎豊のボロボロになった死体らしき写真もネットに公開されてましたが、同時に、裸で、転げまわっていて体を地面に打ち付けていたという証言もあるので、自分でそうなってしまったと考える方が自然に思えます。いずれにしても、警察はこのような、特別な背景がないと思われることで恣意的に事件性なしと判断することはないでしょう。
そして、尾崎豊の最大の死因のその根本的な原因を改めて考えると、それは彼のあまりに天才的でかつナイーブで、繊細で、誤魔化せない、その心と、10代で全てを出し尽くして、それを超える作詞作曲活動、ライブファフォーマンスをだせない自分への苛立ち、そういうものにあったのではないかと想像します。17歳で17歳の地図を出したことは、神の悪戯であったとすら思える程ですから。
尾崎豊の奥さんの尾崎繁美さんが、「彼はテレビですら事件をみて理不尽と感じると、怒りを抑えられない、止められない人で、頭のネジを緩めてあげたかった」というようなことを発言していました。
そういう創作上はよかったかもしれませんが、そこまでごまかせないことが彼の精神を限界まで追い詰めてしまったのかもしれません。彼の遺書とされた文章を掲載します。内容は尾崎の歌詞を彷彿とさせるような気もします。それより、彼はともかく生きていることをどうしても維持できないほど辛かったのは、まず間違いないのではないかと、ここまで書いたことからもら私は推測しています。
尾崎豊の遺書とされるもの
(2012年文藝春秋に掲載)
「先立つ不幸をお許しください。先日からずっと死にたいと思っていました。
死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、そんなことできるくらいなら死を選んだりしません。
ただ死という状況が瞬く間に訪れるのです。生と死を知り、生を葬ることである。
生と善意はあれど、死を感ずるとおろ、ただ失意のごとくに死に向かい、今ひとり人の群棲を歩き、痛み、ただ雨の如し。
思いう虻まだ浅き月日おも、人の言う己を語り尽くすには足ず。
最果てはすべてを許したいけれど、その余りいまなお生きる我に痛みの雨ぞ降りて折り
あなたの歌が聞こえてきます。
まだ若かった頃のあなたの声が、あなたのぬくもが甦ります。
さようなら 私は夢を見ます。」
尾崎豊の人生
尾崎豊は彼の歌で、多くの人を救ったのでしょう。ただし、もし、尾崎豊の親の立場だったら、子どもがこのような苦しんで早死する人生を望まないでしょう。
ただ、これはもう運命としか言い様がないのかもしれません。彼はそう生きるために生まれてきたと言える人で、それをどうともできないので。
彼が、苦しみながらも、人への優しい視線を維持できたことが、これだけの創作活動の原点にあるように思われますが、
それも10代までで、20代からは苦しんでも、10代の時ほどの曲は作れず、それにさらに苦しみ、薬に手を出したということに見えます。
20代からは苦しむことが、10代のころほどは創作にはいかされなくなってきているので、苦しめばいいもの作れるというわけでもないですね。
でも思えば、エルビスプレスリー、マイケルジャクソン、プリンス、美空ひばり、と早死にで、あまりに天才だと人生でバランスとりにくくなることが多いようです。
「神々の愛でし者は 早く神々の元へ召される」 尾崎豊もそのひとりだったのでしょう。
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尾崎豊ラブソング
OH MY LITTLE GIRL
十七歳の地図 · 1983年
一番、甘いラブソングで女性ファンも多いです、アジアの他の国でもかなり知られています。
尾崎の声の魅力だけでなく、一般の人間でも、ある程度上手に歌えれば、魅力的な声を出せます。
「いつまでも、いつまでも離れられなくさせるよ。」 歌詞に、彼のロマンチックな甘えん坊な感じが出て良いです。
Forget-me-not (忘れな草、 勿忘草)
“Forget me not” は”忘れな草””勿忘草”のことです。
壊れた扉から · 1985年
これは、彼のベストソングでかついわくのある曲です。上で書いてきたように、尾崎は10代で燃え尽きたように見えるのですが、
10代最後にギリギリでレコーディングしたのがこの曲なのです。そして、最後に一番輝いた星のように素晴らしい曲で、
この曲名は日本語では 「忘れな草 (勿忘草)」のことです。最後に一番、輝いた曲に、忘れないでくれというメッセージが偶然かもしれませんが入ったのです。
「ときどき、愛の終わりの悲しい夢を君は見るけど。」という歌詞は、恋愛だけでなく、彼の創作活動にまで当てはまってしまいました。
歌詞の最後の方で「初めて君と出会った日 僕はビルの向こうの空をいつまでもさがしていた」の尾崎の歌い方は特に力と感情がこもっています。
尾崎豊の才能を見出したプロデューサー須藤晃の発言
「尾崎豊を象徴しているレコーディングでしたね。他の収録曲はすべて録音が終わっているのに、「Forget-me-not」だけ歌詞ができない。
今日録音しないと(予定していた尾崎豊10代最後の日に)発売できないという日にも全然できていなくて、1回家に帰りたいと言うから帰らせたんですよね。
午後6時か7時ごろだったと思うんですけど、12時までにスタジオに戻って来ないと間に合わないからと念を押して。でも、全然戻って来ない。
それで、もう半ば諦めながらも、みんなスタジオで寝もしないで待っていたんですよね。そしたら明け方5時ぐらいですかね、
いきなり、スーツを着て、ネクタイも締めて、ワインを2本と寿司の折り詰めを持って、尾崎さんが入ってきたんですよね。
「みんなでこれ食べてください」って言うから、「何言ってんだよ。歌詞はできたの?」って訊いたら「できました」って、それですぐに歌ってもらったのがあれです。
もう身体の震えが止まらないぐらいすごくて……この人、このまま死んじゃうのかなと思うぐらいすごかった。あれが僕にとっての、尾崎豊の最も鮮烈な思い出ですね。
尾崎さんは全部で71曲を録音したんですけど、後にも先にもスーツを着てネクタイを締めて歌ったのはこれだけです。
なんだか、この曲を歌うために尾崎さんは存在した、っていう気さえしますね。自分にとっては実はとても重たい曲で、デリケートな曲でもあるんです。
Forget-me-not=僕を忘れないで、ですからね。尾崎さんの死は、僕にとってとても悲しいことだったわけですから。
今から思うと、彼は10代で作った3枚のアルバムが特に優れているんですね。その10代の最後に録音した曲がこれなんですよ。
シェリー
回帰線 · 1985年
これは当時、日清がスポンサーになって、パリダカールラリーの中継のCMで盛んに流されていました。
この曲、失敗繰り返して、苦しみ続ける男からすると、そのまんまで、感情移入しやすいですが、それでも支え続けてくれているシェリーという女性への歌なので、女性からすると、なんでそこまで犠牲にならないといけないのかと反発を受けかねません。要注意 曲です。 とてもいい歌ですが。まあ思いっきり、痛い男として生ききるのも一興かもしれません。この際。
ダンスホール
回帰線 · 1985年
これは地味ながら、彼の声の魅力を普通にいい感じで伝えてくれる歌です。 家出して水商売でバイトして、事件で死んだ女の子をモデルにして作られた歌でした。
「あくせくする毎日に疲れたんだねーー」 と儚げに歌ったり、心に残るフレーズが多い歌です。
I LOVE YOU
十七歳の地図 · 1983年
これは好きな人多いですよね。実際いい歌ですし。ただし、尾崎豊だからこそ、この歌をここまで魅力的に歌えたんだということも、聴くほどにわかります。
驚くのはこの歌、アジア各国でもみんな知っていて人気で、韓国にいたっては、ドラマの主題歌で使われて、韓国の歌だと言い出す人もいます。
この曲がこれだけアジアの人に受けるのは、尾崎豊の芸術性は、アジアで普遍の魅力をもっていることの証です。
「愛がしらけてしまわぬように」という言葉が歌詞に含まれていますが、この歌はアジア内でしらけない歌です。上手い人が歌えば。
問題は、自己陶酔しすぎる人が歌ったときに、どう思われるかですが、それも、尾崎豊みたいに考えすぎたないで楽しめばいいのかもしれません。現実世界はある程度いい加減でないとやってられないから。
尾崎豊ラブソング以外
15の夜
LAST TEENAGE APPEARANCE · 1987年
ストレートに気持ちよく歌いきっているスピード感のある尾崎の代表曲です。
「盗んだバイクで走り出す。」 という歌詞がしばしば教育上問題視されますが、
若者と鬱屈した思いを、こんなにわかりやすく描写していてカタルシスまで与えてくれる曲はまず滅多にありません。
僕が僕であるために
十七歳の地図 · 1983年
ミスチルもカバーしているし、野球の松井秀喜も好きな曲だと言ってます。これもファンの多い曲ですが。
「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」とタガをはめると、勝ち続けられる人しか、僕でいられなくなるので、尾崎豊が自分を苦しめる考え方をしていたこともうかがわせる歌詞にも思えます。
尾崎の曲で最初に多くの人に知られたのはこの曲でしょう。当時、テレビのベストテン番組でずっとランキング入りして、一気に盛り上がりました。学校の窓ガラス壊して回ったという歌詞のせいで、教育現場からは、受け入れがたい曲でもあったようです。
傷つけた人々へ
十七歳の地図 · 1983年
「どれだけ言葉費やし君に話したろう」 尾崎の10代らしい、若さと、爽やかさが、軽やかに、一番気持ちよく表現されている曲です。
路上のルール
壊れた扉から · 1985年
「洗いざらい捨てちまって」 と歌うロックで、これも尾崎の10代をとてもよく らしく 表現している曲です。 尾崎の名曲とされている曲よりむしろ10代のときの彼に自然に近い曲に感じられます。
「疲れに浮腫んだお前抱きしめる」なんて普通の高校生はいわないでしょうが。
彼
壊れた扉から · 1985年
心が不安に悲鳴を上げるような叫びが、ねじれたようなイメージで表現されています。 「弱い日差しの窓辺から、彼はいつも夢見ていた」
米軍キャンプ
壊れた扉から · 1985年
静かな曲です。 その中で行き場のないふらつきを表現しているので、本当は一番重い曲なのかもしれませんが、これもラブソングに入れたほうがよかったかもしれません。傷をなめあう愛を10代の若者が作詞作曲して歌っていたことになります。
DRIVING ALL NIGHT
壊れた扉から · 1985年
ロックです。尾崎の曲の中ではテンポが早いです。「アクセル踏み込む、スピードに目をやられる」 という歌詞も入っているくらいですから。
10代のころの楽曲からすると痛ましいほどの出来です。尾崎はもう歌を以前のようにはまるで作れず、咆哮を上げているように感じます。
太陽の破片
約束の日 Vol.2
「眠れぬに失望と戦った」という歌詞ですが、10代の頃の歌の方が好きです。
黄昏ゆく街で
誕生 · 1990年
これも10代のときに遥かに及ばないまま、無理して作って歌っているように感じられます。
失くした1/2
壊れた扉から · 1985年
「色あせそうな自由な夢の追い立てられてしまいそうなときも」と高校生くらいの年齢を感じさせる、若くて、一生懸命な歌で、メロディも彼の中ではユニークで時々聴きなくなる曲です。
LOVE WAY
誕生 · 1990年
もう尾崎ファンとしは聴くのが辛いベルです。彼は、「普通の愛」という7篇からなる短編小説集を出版していて、その中にこの曲名と同盟の短編があり、ドラッグにはまった主人公のはなしが収録されています。小説ではありますが、ファンに想像をさせてしまう小説です。
Freeze Moon
壊れた扉から · 1985年
カラフルなペイントでドロドロになるMVとこの曲にまつわる、死についての彼のMCと一人でいいから本気で人を愛したい、さみしいときはいつも考えているという冒頭の語りと、そこから始まるこの激しめの楽曲が既に10代のこの当時から、彼がやばいものを抱えていたものをおもわせます。
優しい陽射し
放熱への証
友人がこの歌聴いて、尾崎豊も、曲作れなくて辛いから死んじゃったんじゃないかって言っていたのが忘れられません。10代で出し尽くしてしまったんだろうなあと、一番思わさせる曲でした。
Scrambling Rock’n’Roll
回帰線 · 1985年
とてもストレートでわかりやすいロックンロールです。逆に尾崎にしては珍しいとも感じられる曲です。私には尾崎っぽくないのに、ロックンロールとして普通っぽくまとまっている不思議な印象があります。無理にロックの一般的なスタイルを自分にあわないままつくろうとしているかのような。
ハイスクールROCK’N’ROLL
十七歳の地図 · 1983年
これは上のScrambling Rock’n Rollよりもは、尾崎っぽい要素が入っていますが、それでも、まるで、佐野元春や、浜田省吾や、ブルーススプリングスティーンの要素を無理に自分に加えようとしているかのような感じも残っています。
誕生 · 1990年
これも10代の頃の歌にあまりに及ばず、彼がどんな気持ちで歌っていたか、無理に想像したくもないですが、ちょっと辛いですね。
ドーナツ・ショップ
壊れた扉から · 1985年
目立ってないけど、とても好きな曲です。これを名曲と感じている人もいるでしょうが、途中で語りが長くで、それがなかなか大人には恥ずかしいセリフなので、カラオケで非常に歌いにくいという、大きな難点があります。「人や車の流れを、自分のさみしさのように見ていた」 こんな歌詞を作れるのは彼だけでしょう。そしてそれを自分のことのように感じられるのも、10代の感性だけかもしれません。わかる人には強い印象を残してくれる曲です。
遠い空
街路樹 · 1988年
「世間知らずの俺だから」 と遠い場所で、新しい仕事をした人を、その当事者になって応援できるような歌です。これもそれほど目立ってないけど、とてもいい歌です。
Scrap Alley
回帰線 · 1985年
「Say good bye to scrap alley」 20代の作品と比べると、10代の時では平均的だったこの曲もとても魅力的に聴けます。これも彼の中でユニークなロックで、19で父親になった友人のことを歌い、生活が違う方向に向かっていることを歌っています。
街の風景
十七歳の地図 · 1983年
これもなかなかいいなあと思うとやっぱり、10代のときのデビューアルバムの作品です。当時は、それ以上の名曲たちの影に隠れがちの曲でしたが 「野良犬みたいに」
Teenage Blue
回帰線 · 1985年
10代の歌の中では一番目立たない曲だとも思うのですが、20代の曲の中に入れれば、それでもかなり良いかもしれないとすら思えます。
永遠の胸
誕生 · 1990年
これは歌い方と声については10代の頃を多少思い出せる曲です。でも作曲と作詞では10代の頃よりやはり苦労しているようです。
はじまりさえ歌えない
十七歳の地図 · 1983年
これも十分魅力的な曲でありながら、同一アルバムにきら星のように名曲があるため、それほど知られてない曲です。相対的には目立てなかったようです。
街角の風の中
街路樹 · 1988年
これも10代の曲に遠く及びません。ユーチューブでも他の曲より再生回数少ないのには正直に反応がでてます。
愛の消えた街
十七歳の地図 · 1983年
ノーコメント
誰かのクラクション
壊れた扉から · 1985年
尾崎の曲の中でこれもユニークなポジションで、何かゆっくりサイケデリックな印象を少し受けました。
Bow!
回帰線 · 1985年
10代の尾崎の若々しい、ハツラツとした元気が声にも溢れています。 「金で変える自由がほしいのかい」
存在
回帰線 · 1985年
このころの尾崎は、歌詞の幼さすら、魅力的にするほどの歌いかた、歌声、勢いがあったことがこの曲でもわかります。
坂の下に見えたあの街に
回帰線 · 1985年
浜田省吾を思い出させるような、ホームタウンを飛び出したいという歌詞です。これも十分魅力的で、家を出てたい思いと、母親への思いが重なることが歌われています。
尾崎豊まとめ
彼が自ら健康を害するようなことをして、26歳でなくなっても、今の若者の多くは、尾崎豊を知っています。世代を経ても褪せない魅力をもっているのが彼です。アジアの他の国でも好意的に受け入れられてます。
彼の歌がそれだけ魅力的なのは、彼の感性が特別に繊細で、多くを感じとり、それによって自分を苦しめながらも、それを精一杯表現してくれていたおかげに見えます。でも本人はその苦しさからぬけられず、それが早死の大きな原因となったようです。上の曲ごとの紹介でも20代になってからの尾崎豊は10代と別人のように、歌の魅力が失われてきています。10代のころが素晴らしすぎたせいもあって、それを誰もとがめられませんが、それを一番切々と感じていたのは本人のハズです。それが彼を追い詰め、死の一因になってしまったように思われます。
たまに、尾崎豊を聴き直してみると、思い出すもの、助かるものがあると思います。
冷静な分析を心がけておられながら、とても優しいですね!
FaceBookだけでなく、こちらにもコメントありがとうございました。益田さんこそ丁度尾崎豊と同年齢だったのでは。