小説と映画『永い言い訳』 感想 失ってから妻の愛を知る男(本木雅弘主演)
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『永い言い訳』 主演 本木雅弘 7年ぶりの主演
本木雅弘前回の主演作は7年前の
『おくりびと』
でした。かなり好評だった映画でそれから久しぶりに彼の主演映画ということでそれだけでも観ようとしている人は多いです。
結婚して20年も経って、すっかり冷めた関係になっていた夫婦の奥さん(深津絵里)が突然交通事故で死に、その時、主演の(もっくん)は他の女とベッドにいたというのが始まりの方で、
小説だと最初の方に更に、この主人公の女に対する冷めた感覚を、かなりきわどい描写で書かれています。
どんな人が見ると泣けるか
大切な人を失って、まだ辛い気持ちを消化しきれてない人。あるいは主人公のように、もう気持ちが冷めすぎてたり、麻痺していて、悲しみの感情すらわかないママの人。人にたいする喪失感、あるいは喪失感を持たないために、その感情を麻痺させている人。 また生きている時間ってとっても貴重だなあと感じたい人かと思います。
どんな人が見ると良いか?
結婚して20年以上たって、もうちょっと覚めてきたかなという夫婦がみると、やっぱり、大切にしなくちゃなあと思えて良いかと思われます。内容の理解度によっては、必ずしも良い効果があるかはわかりませんし、特に、出だしで夫があまりに妻をかえりみたい。ベッドシーンも妻が出かけた自宅という設定なので、余計に気まづくなる場合も考えられます。自己責任でお願いします。
原作、脚本、監督 まとめてやっている西川美和
小説書くだけでも挿話を作る能力の高い作家さんだなと思わされます。どこか村上春樹を思い出させる文体も、小説の前半では出てきます。
小説の帯の文句は
「愛するべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくない」
で、小説ではこのあとに、大切な言葉が続き、なぜ ”長い”でなくて”永い”言い訳なのかがわかります。
妻に対する、気持ちがすっかり冷めて、妻が死んだ時に、涙が全く出ないどころか、まるで感情も動かなかったこの主人公が、
妻の友人の家庭の子供の面倒を見て、その家族が知っている、妻の話を聴いたり、自分の知らなかった妻の姿を知ったり、
その家族との交流で、自分の心の中で蘇ってきたものがあったりして、すっかり今は亡き妻への気持ちが変化してくるのです。
原作では主人公が妻の友人の娘4歳の面倒を見ることでも意識が変わってくることが書かれているのですが、原作自体が、最初から映画化を考えていたのかなと思わされる内容で、情景描写や人物描写について映像でやればいいやと思っているのかという部分もあり、(例えば、この4歳の女の子の可愛らしさは小説での表現はうまいところと足りないところが混ざっていて不自然にみえました。逆に映画でグレードアップしやすいかと思います。)
原作より映画のほうが、良いはず。
さりげなく書いているので見過ごしそうなことで、大切なことが書かれています。
「夏子(主人公の奥さん)さんはいつも幸夫(主人公の本名)の話を9割くらいしてましたよ。」
これをたしか一回だけ、さらっと書いてあります。
これ明らかに、奥さんは夫を、愛していたのですね。
これと別に、携帯に残されていた、未送信の下書きのメッセージとして
「もう愛していない ひとかけらも」
これは、奥さんが彼についてそういっているのか、夫が自分をそうみているいっているのか、ともかく二人共そうなってしまっているといっているのか、もうよくわからないけど、
「失いたくないものを失ってしまった。あるいは最初から手に入れてなかったのかも」
と、悲しくつぶやいているように読めます。
鈍感で、道徳観念もかなり壊れていた主人公も、だんだん、自分がかなり酷いことしていたこと、
とりかえしのつかないことをしたこと、それは誰か他の人を新しく愛しても、楽しい日々を過ごしても贖えないことだと思うようになる。
だから、”永い” 言い訳。 永遠に贖えることのない、言い訳を、死んだ妻にし続けるしかないと思うという話になってきます。
(作者もここまで面倒くさく理屈っぽくは読んでもらいたくないかもしれませんが。)
「人はいつも、本当に大切なものはそれを失ってからしか、それに気がつけない」
ということだと思うのです。実際は、もっと馬鹿で、失恋して、孤独で、淋しい、ときは恋人いたありがたさがわかるのに、
また恋人できると、傲慢になってまた失恋して、と繰り返すのが、よくあることなんですよね。
でも、この小説と映画のように、自分に惚れてくれていて、本当によい奥さんと20年も過ごして、10年も奥さんに食わせてもらっていて頭上がらなかった時期があったことも、成功したあと、他の女に走る理由の一つになっているようでという状況で、失ったものは、人生で何度も繰り返せるほど、軽いものではないですね。20年は重いですね。
純情な男がなかなか本心を伝えられないのは、男としては容易に想像つくのですが、女性もそういうことは結構あるようです。
何度もデートしてくれているのに、自分のことを好きではないという、でも一緒にいると楽しい。彼女の男友達が是非自分に会いたいというのであってみたら 「彼女は僕と話しているときは、いつもあなたの話ばかりしているのですよ。」 と言われて、その男友達が彼女に惚れていることが伝わってくるような状況だと、鈍感で自信のない男でも流石に、フーンと感づくものです。この主人公はそれと似たことを、自分をもう愛してないと思っていた妻が死んだあとに聴かされたことになります。
しかも、「もう愛してない ひとかけらも」 なんて本当に興味なかったら、わざわざ携帯に下書きで残していたりしません。
この映画のテーマへの反論
大切な人が生きているあいだに、大切にできなかったことを、主人公は後悔するようになり、
「俺たちは生きている時間というものを舐めていたね。」
とも、亡き妻への手紙に書いています。
生きている時間の大切さを述べながら、同時に、生きている間に「永い言い訳」を主人公にさせたのでは、
生きている時間を十分には大切にできないはずです。過ぎたことにはなるべくとらわれないで、今生きていることに集中できる方が望ましいという価値観と、永い言い訳をしながら生きている時間を過ごすという価値観が、矛盾しながら、一緒に表現しているので、割り切れない、中途半端な暗さが残りました。
気持ちを切り替えるのが下手な人は多いから、切り替えようとしても、切り替わらないものなのに、永い言い訳しながら、生きていくと決めたら余計に生きづらくなります。それは小説や映画として、さった人への追憶の物語として、割り切って置くべきかと思いました。
まとめ
「人は失ってからしか本当に大切なものに気がつけないものです。」 聡明な人なら、得たもののありがたさをずっと忘れないように大切にし続けられるのかもしれませんが。せめて、失ってやっと気がついた大切なものがあるなら、次にその大切なものに触れられる幸運があったなら、それをきちんと大切にできるようでありたいものですね。(そんなこと繰り返して僕らの人生の時間は過ぎていく)
おまけ
若い名脇役 池松壮亮
池松壮亮は若いのに、
「海よりもまだ深く」
もこの映画も、主人公のダメっぷりを発揮している年上の主人公に、責めるでもなく、ショーがないけどこうした方が良くないっすかみたいなことを言う役です。
若いのに、哀愁あってでもひねくれているわけじゃなくて、としがずっと上の男すら優しい目線で見ている若者の役をうまくこなしています。
音楽
なんとオペラの
ヘンデル作曲の「オンブラ・マイ・フ」
手嶌葵(「ゲド戦記」(06) ヒロイン・テルーの声優と主題歌 挿入歌「テルーの唄」で歌手デビュー 「西の魔女が死んだ」(08)、「コクリコ坂から」(11)でも主題歌)
が、幻想的な綺麗な声で歌っています。監督は彼女の声聴くと、自分の映画なのに涙が出ると。
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